日本人はなぜ遺骨を大事にするのか(5) ―「骨」と芸道論―
日本語には「骨がある」「骨に沁みる」「人品骨柄」など骨に関する様々な表現があります。その中には日常的な表現だけでなく、芸道における心構えや美学を表すケースも少なくありません。
芸道論において「骨」という言葉を重視し始めたのは、平安時代の末期から鎌倉時代の初期にかけて活躍した大歌人、藤原定家です。
定家は『新古今和歌集』と『新勅撰和歌集』という2つの勅撰集(天皇や上皇の命でまとめられた歌集)に関わり、『小倉百人一首』の選者でもあります。
もともと気性が激しく、他人の和歌を軽んじたり、他人の意見を聞き入れない強情さを持っていました。
『新古今和歌集』を編纂した後鳥羽上皇(文武両道の傑出した帝王でしたが「承久の乱」で隠岐に流され亡くなりました)が、定家の歌を褒めて新古今に入れるように勧めても、自分では気に入らないからと断り続けたほどです。
定家は歌論の中で「風骨」とか「性骨」という表現を好んで使っていました。「骨」という言葉は歌を詠むにあたっての根本姿勢を表していたようです。
後鳥羽院も定家を、「骨」のすぐれた生まれつきの上手であるというようなことを言ったりしています。
定家はその後、和歌はもちろん連歌や能楽、茶道、書道などにも大きな影響を与え、世阿弥、金春禅竹、松尾芭蕉、本居宣長などが高く評価しています。
こうした様々な芸道において、「皮肉骨」(ひにくこつ)という言い方がよくされます。作品の構造や表現の方法を皮・肉・骨にたとえたものです。
例えば、定家の名を騙って書かれたとされる歌論『愚秘抄』では「強きは骨、やさしきは皮、愛あるは肉」とされています。
また、世阿弥が著した能楽書『至花道』(しかどう)には、次のようにあります。
そもそもこの芸態に、皮・肉・骨の在所をささば、まづ下地の生得のありて、おのづから上手に出生したる瑞力の見所を、骨とや申すべき。舞歌の習力の満風、見にあらはるるところ、肉とや申すべき。この品々を長じて、安く、美しく、窮まる風姿を皮とや申すべき。また見・聞・心の三つにとらば、見は皮、聞は肉、心は骨なるべきやらん。
要は、「骨」とは生まれ持った才能、「肉」とは芸の基本である舞と歌を完璧に習得していること、「皮」とは美しく完成された姿、ということです。
『至花道』では次のようにもあります。
何と見るも弱きところのなきは、骨風の芸劫の感、何と見るも事の尽きぬは、肉風の芸劫の感、何と見るも幽玄なるは、皮風の芸劫の感のこと
芸に弱さがないのは「骨風」、見所満載なのは「肉風」、どこから見ても美しく見えるのは「皮風」だとして、さらにこれら3つを備えた者はほとんどいないと述べています。
もう一人、藤原定家を高く評価していたのが、江戸時代の俳聖、松尾芭蕉です。
芭蕉はある時、弟子に送った手紙で、「はるかに定家の骨をさぐり、西行の筋をたどり」と述べています。
和歌における理想(定家においては技巧と洗練の極致)を追い求めた定家の姿勢にならい、芭蕉は自らが目指す「俳諧」の理想(芭蕉においては自然と人生に基礎を置く万葉集の心)を追い求めていました。
芭蕉は50歳で亡くなったのですが、その10年前、出身地である伊賀上野に旅した際の紀行文『野ざらし紀行』の冒頭の一句。
野ざらしを心に風のしむ身かな
「野ざらし」とは“しゃれこうべ”のことです。旅立ちにあたり、途中で行き倒れになって白骨を野にさらすことになるかもしれないと覚悟を述べるところに、芭蕉の美学が込められているようです。
日本において「骨」は芸道における神髄や本質のメタファーとして、藤原定家以来多くの天才たちに受け継がれてきたといえるでしょう。
※参考:山折哲雄『死の民俗学』(岩波書店、1990)
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