お墓と弔いの歴史(7)日本に伝わったストゥーパが三重塔や五重塔に
お墓と弔いの歴史を振り返るこの連載。
今回は、お墓の原型とされるインドの「ストゥーパ」が中国を経由し、日本に伝わると、日本独自の建築である三重塔や五重塔になったことを見ていきます。
紀元前5世紀とも4世紀ともいわれる頃、仏教とともにインドで生まれた「ストゥーパ」はもともと、土を盛った半円球の形(お椀を伏せたような形)をしていました。やがてレンガや石を積んだ形になり、さらに紀元前1世紀頃、中国に伝わると石や木による直立した塔の形になりました。
その後、日本に仏教とともに伝わったのは6世紀半ば頃のことです。
『日本書紀』によると585年、仏教の導入に前向きな崇仏派の蘇我馬子が塔を建てて仏舎利(仏陀の遺骨)を納めましたが、数カ月後には廃仏派の物部氏に切り倒されました。
蘇我氏と物部氏の対立は激化し、数年後、物部氏に勝利した蘇我馬子は、仏恩に報いるため飛鳥に法興寺(現在の飛鳥寺)を建立し、また蘇我氏とともに戦った厩戸皇子(聖徳太子)は難波に四天王寺を建てました。
これをきっかけに6世紀末から数多くの仏寺がつくられ、三重塔や五重塔が盛んに建てられたのです。
この頃、つくられた仏寺は基本的に、仏像を納める「金堂」と仏舎利を納める「仏塔(ストゥーパ)」の2つが伽藍の中心に置かれていました。日本に仏像信仰と仏舎利信仰が同時に入ってきたためです。
例えば、日本最古の塔である法隆寺五重塔(国宝)は、写真のように金堂と並んで立っています。
http://www.horyuji.or.jp/garan/gojyunoto/
金堂と仏塔のバランスをとるため、おおむね仏塔は金堂の2倍ほどの高さにつくられました。
法隆寺では、金堂が5丈半(約16.7m)に対して五重塔が10.7丈(約32.4m)、東大寺では金堂が16丈(約48.5m)に対して七重塔が32丈(約97m、室町時代に落雷で焼失)、當麻寺では金堂が4丈(約12.1m)に対して三重塔が8丈(約24.2m)です。
注目すべきは、金堂が低い場合は三重塔、より高い金堂には五重塔、そして東大寺のような巨大な金堂には七重塔が選ばれていることです。これも、金堂の大きさとのバランス感覚の現れと考えられています。
なお、三重塔にしろ五重塔にしろ、木組みによる重層の仏塔は日本独自の構造で、基本的に内部に階段などはなく、上に登ることはできません。
建物の中心に太い一本の柱(心柱)を立てるとともに、各層は心柱とは切り離され、しかも下層と上層の部材が複雑に入り組みながら、釘などは使わず緩やかに接合されています。
そのため、現代の超高層建築と同じ「柔構造」となり、地震などの揺れを受け流し、法隆寺五重塔は1400年以上の間、倒壊したことがありません。
現在、日本には木造の塔が300基以上あり、そのうち明治維新以前に建てられた五重塔22基はすべて国宝か国の重要文化財に指定されています。
遠くインドから伝わったストゥーパは日本において三重塔や五重塔となり、いまも私たちの身近にあります。
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