お墓と弔いの歴史(10) 「五輪塔」が簡素になり、庶民に広まったのが「三段墓」
お墓と弔いの歴史を振り返るこの連載も10回目です。
今回は、仏教伝来とともに日本で生まれた木組みの「五重塔」がその後、石でつくる「五輪塔」などに変わり、さらに江戸時代になって簡略な「三段墓」として広く普及していったことをみていきます。
現在、最も一般的な墓が、石造の「三段墓」や「四段墓」といわれるタイプです。
地域により形状、寸法、装飾などに様々なバリエーションがあり種類も豊富です。
「三段墓」「四段墓」で一番上にあるのが「竿石(さおいし)」です。「仏石(ほとけいし)」と呼ばれることもあります。
縦長の直方体で、表には「○○家之墓」「南無阿弥陀仏」などと彫ってあります。
その下が「上台」と呼ばれる立方体に近い石で、家紋を彫ったりします。
「三段墓」の場合、その下が「芝台」や「下台」などと呼ばれる敷石です。上台より平面が広く、高さは低く、平べったい形をしています。
「四段墓」の場合、「上台」と「下台」の間にさらに「中台」が加わります。
全体が高くなり、平面の広さも増すので、墓そのものが大きくなります。
ただ、「三段墓」と「四段墓」の区別はあいまいで、上台、中台、芝台(下台)の3段の上に「竿石」を置くから「三段墓」と説明するケースもあるようです。
また、「三段墓」「四段墓」は厳密にいえば墓石のことであり、墓にはそのほか「カロート」(納骨室)や供物台、花立、水鉢、香炉などが一緒に設けられます。
特に「カロート」は墓石と並ぶ重要なパーツであり、以前は墓石の地下部分にカロートを設けることが多かったようですが、最近は「下台(芝台)」の下、あるいは「下台(芝台)」に代わって、「墓台」などとして地上に設けるのが一般的です。
図表 「三段墓(四段墓)」の例
こうした「三段墓」「四段墓」が登場したのは、江戸時代の中期以降とされます。
もともと亡くなった人を弔い、供養するための墓としては、石を使った「五輪塔」が平安時代末に登場し、長い間、墓といえば「五輪塔」のことでした。
ただし、五輪塔がつくられたのは皇族や貴族、有力武将などに限られます。
それが江戸時代の中期になると、「檀家制度」が全国に行き渡り、寺院と庶民との結びつきが強まりました。その結果、下級武士や町民なども石の墓を建立するようになったのです。
このとき登場したのが、五輪塔を簡素化した「三段墓」や「四段墓」というわけです。
これらは五輪塔に比べ石の加工がしやすく、費用的にも手が届きやすかったのでしょう。
さらに明治時代になると、旧民法で家制度が確立され、「家」単位で墓を持つことが一般的になりました。
こうして、日本中に「三段墓」「四段墓」が普及していったのです。
なお、現在でも五輪塔と三段墓などを同じ墓地の区画に並べて建てることがあります。その場合、五輪塔は仏塔=本尊を祀るもの、三段墓などは供養塔=先祖を祀るものとして区別されます。五輪塔の方が三段墓などより高いポジションに位置づけられているのです。
そもそも、積み重ねる石の数が、「五輪塔」に対して、「三段墓」「四段墓」のほうが少ないのは、そうした意識が働いているのかもしれません。
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