お墓と弔いの歴史(11)「三段墓」とは別のルーツを持つ「宝篋印塔」
お墓と弔いの歴史を振り返るこの連載。
今回は、いまも和型墓石として、「三段墓」などとともに見かけることがある「宝篋印塔」について取り上げます。
日本で現在、最も一般的な墓は、石造の「三段墓」や「四段墓」といわれるタイプです。
これらは前回みたように、平安末期に登場した「五輪塔」が江戸時代に簡略化され、庶民の間に普及したものです。
「三段墓」や「四段墓」、「五輪塔」はまとめて「和型墓石」と呼ばれますが、「和型墓石」にはもうひとつ「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」と呼ばれるタイプがあり、現在でもたまに見かけることがあります。
図表 「宝篋印塔」の例
https://sekizaiten.co.jp/works/
「宝篋印塔」の発祥は10世紀、中国の五代十国時代に遡るとされます。
当時の呉越王であった銭弘俶(せんこうしゅく)が、諸国に8万4千の塔をつくり、そこに宝篋印陀羅尼(ほうきょういんだらに)という仏教の経文を収めたというのです。
8万4千という数は、この連載の第4回と第5回で取り上げたように、紀元前5世紀頃にブッダ(釈迦)が亡くなった後、その遺骨(仏舎利)を納めた8つのストゥーパ(半円球の塚)がインドの各地につくられました。
前3世紀にインドを統一したアショカ王は、このうち7つのストゥーパから仏舎利を取り出し、新たにインド各地につくった8万4千基のストゥーパに分けて納めたといいます。
呉越王の銭弘俶は、この故事にならって同じように8万4千の塔をつくったというわけです。
この塔は、もともと金属製の小塔だったようです。
というのも、日本にも鎌倉時代に伝わり、「銭弘俶八万四千塔」と呼ばれて現在、10基ほどが現存します。
写真は、東京国立博物館に所蔵されている青銅製のもの(高さ22㎝)で、1918年(大正7年)に和歌山県の那智経塚から出土しました。
図表 「銭弘俶八万四千塔」(東京国立博物館所蔵)
https://www.narahaku.go.jp/collection/p-961-0.html
これに似た塔は、8世紀に日本へやってきた鑑真和尚が持参した品々の中にもあったと記録されており、おそらく銭弘俶(せんこうしゅく)の前から中国にあったものでしょう。
日本ではこれらを模して、鎌倉時代の中期以降になると、「五輪塔」と同じように石造の「宝篋印塔」が各地の寺院でつくられ、現在は石造美術の一種として重要文化財に指定されているケースも少なくありません。
さらに、「宝篋印塔」のデザインが墓石として用いられるようになり、いまなお新しくつくられているというわけです。
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