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中世日本における死生観(1) 多発する戦乱・災害と「末法思想」の広がりNews

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中世日本における死生観(1) 多発する戦乱・災害と「末法思想」の広がり

2022年8月26日

いまや日本人の死生観は様々であり、明確に「これ」ということはできません。しかし、多くの人にとって「聞いたことがある」「そういえばこんな感じ」といった共通の認識があるのも事実ではないでしょうか。

そうした共通認識のベースとなっているのが平安末期から鎌倉初期にかけて広まった思想や宗教、文化です。今に続く日本中世における死生観を見ていきましょう。

まずは「末法(まっぽう)思想」についてです。

 

 

「末法思想」とはブッダ(釈迦)が亡くなった後、仏教が次第に衰えていく過程である「正像末(しょう・ぞう・まつ)」、すなわち「正法」「像法」「末法」という3つの時代区分のうちの最後の時期のことです。

 

正法と像法についてはインド仏教で早くから考えられていましたが、末法は6世紀ころ仏教徒が厳しい迫害を受けた西北インドで生まれた中国にもたらされ、日本にも伝えられました。

 

「正像末」の捉え方としては、正法500年、像法1000年、末法1万年とする説と、正法1000年、像法1000年、末法1万年とする説(像法1000年、末法1万年は同じ)があり、日本では後者が信じられました。

ブッダがいつ亡くなったかには多くの説がありますが、日本ではそのうち中国で唱えられていた周の穆王(ぼくおう)52(949)とする説が有力でした。そこから計算すると末法の世に入るのは1052年となります。

こうして日本では、1052(永承7)から末法の世に入り、世の中が乱れつつあるという意識が人々の間に広がっていったのです。

 

この末法についての考え(末法思想)は当初、知識階級である貴族の間に限られていたようです。しかし、平安末期になると戦乱や自然災害が多発するようになり、多くの人が切実に感じるようになっていきました。

 

例えば、平安末期から鎌倉初期の時代を生きた鴨長明の『方丈記』には、次のような動乱や災害が記されています。

11776月に「安元の大火」が起き、当時の都の3分の1が燃え、空一面が紅になりました。

11806月には「治承の辻風」と呼ばれる竜巻が都を襲い、多くの家が吹き飛ばされました。

1181年には「養和の飢饉」が起き、疫病も発生したため、都の中心部だけで4万以上の遺体があったそうです。

1180年から85年まで続いた「治承・寿永の乱」では最終的に平氏が滅亡。直後の11858月には琵琶湖南部を震源とする「文治地震」が発生し、土砂崩れ、河川の閉塞、琵琶湖の津波、液状化、家屋倒壊など甚大な被害をもたらしました。

 

こうした相次ぐ動乱や災害によって多くの人が末法の世の到来を実感し、『平家物語』冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」ではないですが、ある種の無常観が日本人の間に定着していったのではないでしょうか。

「文治地震」の様子

http://www.zuikouji01.sakura.ne.jp/monngo/sinnrann/06syakai/houjouki.files/houjouki.htm

 

 

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