中世日本における死生観(2)― 弥勒信仰から阿弥陀信仰へ
いまや日本人の死生観は様々であり、明確に「これ」ということはできません。しかし、多くの人にとって「聞いたことがある」「そういえばこんな感じ」といった共通の認識があるのも事実ではないでしょうか。
そうした共通認識のベースとなっているのが平安末期から鎌倉初期にかけて広まった思想や宗教、文化です。今に続く日本中世における死生観を見ていきましょう。
今回は、弥勒(みろく)信仰から阿弥陀(あみだ)信仰への変化についてです。
前回ふれたように、平安末期には動乱や災害がいくつも重なり、世の中には次第に「末法思想」が広がっていきました。そうした中で心の救いを求める人々に広まっていったのが浄土教です。
※浄土教については次回以降、取り上げます。
そもそも「浄土」とは、大乗仏教において登場した様々な仏や菩薩が住む清浄な世界を指し、いわば宗教的な理想郷です。
私たちは「浄土はひとつだけ」と思いがちですが、実は仏や菩薩によって様々な浄土があります。それぞれの仏や菩薩が住み、治めている世界が浄土であり、いろいろな名前がついているのです。
・阿弥陀如来(阿弥陀仏)の「西方極楽浄土」
・薬師如来(薬師仏)の「東方浄瑠璃浄土」
・弥勒菩薩の「兜率天(とそつてん)」あるいは「弥勒浄土」
・大日如来の「密厳浄土」
・阿閦仏(あしゆくぶつ)の「妙喜浄土」
・毘盧遮那仏の「蓮華蔵世界」
・釈迦如来の「霊山浄土」
・観世音菩薩の「補陀落(ふだらく)浄土」
中国では4世紀から6世紀にかけての北魏時代、これらのうち弥勒菩薩の信仰が盛んで、「兜率天(弥勒浄土)」へ往生することが多くの民衆の願いでした。
弥勒菩薩とは、釈迦の次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)で、釈迦が亡くなってから56億7千万年後にこの世界に現われて悟りを開き、多くの人々を救済するとされる未来仏です。ユダヤ教などにおけるメシア(救世主)に似た存在といえるでしょう。
弥勒菩薩はこの世界に現れるまでの間、兜率天(浄土のひとつ)で修行しており、この兜率天に往生しようと願う信仰が中国で流行していたのです。
日本でも飛鳥時代に大陸から仏教とともに弥勒像が伝わり、仏教信仰は弥勒信仰が主流だったといわれます。
広隆寺「弥勒菩薩半跏思惟像」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%8B%92%E8%8F%A9%E8%96%A9%E5%8D%8A%E8%B7%8F%E6%80%9D%E6%83%9F%E5%83%8F
しかし、中国では隋や唐の時代になると阿弥陀仏の極楽浄土にとってかわられていきました。
日本でも平安時代の頃から次第に阿弥陀仏の極楽浄土信仰が優勢になっていきました。
阿弥陀仏(阿弥陀如来)は、過去においては法蔵菩薩として48の誓願を立てて修行をしていました。48の誓願のうち第18願が「阿弥陀仏を念ずれば極楽往生できる」というものです。
修行の後、法蔵菩薩は阿弥陀仏となり、西方極楽浄土に住んで衆生を救済する存在になったわけです。
高徳院「阿弥陀如来坐像」(鎌倉大仏)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%A6%82%E6%9D%A5
なぜ弥勒信仰(兜率天信仰)から阿弥陀信仰(極楽浄土信仰)が優勢になっていったのかについてはいろいろな説があるようです。
はっきりしたことは分かりませんが大きな理由として、兜率天あるいは弥勒浄土へ往くには座禅などの修業が必要とされたのに対し、極楽浄土へ往くには阿弥陀仏の本願という他力に頼り、念仏を唱えるだけでよいとされたことがあったように思われます。
動乱や災害がうち続き、明日は我が身もどうなるか分からないような世の中において、一般大衆の心により響いたのが阿弥陀仏と西方極楽浄土だったのではないかと思います。
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